第17章

　子供の頃から、海を渡って異国に行くことを夢見ていたオーエンだが、現実に実現したそれは、非常に惨めなものだった。クラウンシティの波止場から飛び乗った船は、アルビオンで生産された機械や製品、ウォッチメイカーの錬金術師が作り出した黄金を乗せて、アトランティスの中心都市ポセイドンへ向かっていた。この船の船長、ロッチは「この船に乗る予定でした」と言うオーエンの言葉に疑いを抱くことなく船に乗せてくれ、彼に小さな個室をあてがってくれた。この船に来る客は皆ウォッチメイカーによって決められているので、それに疑いを抱くこともなかったのだ。オーエンはしかしそのことに罪悪感を抱き、何か自分に出来ることはないかと申し出た。船長は倉庫の棚卸しをしてくれと言う。そこでオーエンはメモ帳を手に、言われた仕事をした。
　船が進んでいくにつれ、アルビオンから遠ざかっていく。アナキストから、レギュレイターたちから、そしてバレル・アーバーと故郷の人たちからも。しかし母の絵本をずっと見て育った彼は、なおも夢を捨てられなかった。いよいよアトランティスへ渡る。真実の愛は幻想とわかってしまったが、別のものがある。もしこの船での自分の働きが認められたら、ロッチ船長は自分を水夫にしてくれるかもしれない。そしてアトランティスとアルビオンを往復して、生計を立てられるかもしれない、と。
　しかし二日目に風向きが変わり、船が揺れ出すと、オーエンは激しい船酔いに襲われた。水夫たちはその中でも平気で働き、甲板の揺れる台の上で、落っこちそうな駒を押さえがらチェスをしている者までいる。しかしオーエンは自分の小さな船室にこもり、バケツに吐いてはその中身を捨てることしか出来なかった。おなかを押さえ、吐き気をこらえて寝棚に横たわった彼はあまりに気分が悪く、フランチェスカのことを考える余裕もなかった。そして漠然と考えていた。夢は破れてばかりだ。自分は今やウォッチメイカーに追われる逃亡者だ。レギュレイターたちは彼をアナキストだと思っている。本当はそのアナキストの手からウォッチメイカーや天使たちや、クラウンシティの人々を救ったのに。
　夜になって、いくぶん海が収まり、甲板に出たオーエンは夜空を見上げ、星がたくさん出ていることに、そしてその星のパターンがアルビオンのものと少し違うことに、軽い驚きを感じていた。水平線の向こうに、明かりが見えた。しかしその正体はわからないまま、通り過ぎていった。
　翌日、オーエンはロッチ船長に紙と鉛筆をもらい、相変わらず船酔いに苦しみながら、少し症状がおさまっている間に少しずつ、故郷バレル・アーバーの父に向けて手紙を書いていた。今までの冒険と今彼がどこにいるかを。これまでも何回か、カーニバルの人たちと各地を巡っている間に便りを送ったが、それは父の手に届いているだろうか。今父はどうしているだろうか、ラヴィニアは。バレル・アーバーのほかの人々は。彼らは自分のことをどう思っているだろうか。もう自分がいたことも、忘れているだろうか――
　なんとか手紙を書き終えると、オーエンはそれをロッチ船長に託し、船長もアルビオンについたらそれを電信局へ送ると約束してくれた。
　五日目、新鮮な空気を求めて甲板へ出て行ったオーエンは、またもや揺れにあって、ひどい船酔いを起こす。ロッチ船長は同情をこめて言った。「ウォッチメイカーももう少し船酔いに強い人をよこせばよかったのに」「すべては最上の結果へ」オーエンは呟く。
「午後遅くには、ポセイドンに着くよ、大丈夫」船長はそう言い、オーエンはやっと固い地面に降り立てると知って、ほっとする。

　ポセイドン市の波止場に着き、船を下りたオーエンにロッチ船長は声をかけた。
「大丈夫かい、若いの？」
　こんな形ではあるが、憧れのアトランティス、その中心都市ポセイドンにやってきた。そのことにいくぶんかのわくわく感を感じてはいるものの、生活をここで新しく築いていくのは大変に違いない。そう思ったオーエンは言う。
「大丈夫ですが――少しお金を貸してもらえませんか？」
　船長は快く『質素に暮らせば数日間は持つ』量のお金をくれる。クラウンシティに行く時にアナキストにお金をもらい「君に貸しを作りたいのかも知れないな』と言っていたことを思い出し、オーエンは一瞬躊躇するが、「必ず返します」と船長に言い、船を下りる。

　ポセイドンはしかし、クラウンシティとは対極の町だった。きちんと円形状に整備され、整然としてきらびやかだったクラウンシティに比べ、ポセイドンは無秩序で雑然としていた。ビルは傾きかけ、掘っ立て小屋がひしめき合っている。
　どこまでも居酒屋ばかりが続く通りを歩いていると、二人の男がオーエンにぶつかり、その後旧知のように肩を叩いて謝ってきた。彼らの息はすっぱいキャベツと魚のにおいがした。ここでは誰も知り合いがいないから、この人たちと仲良くしようかとオーエンは思ったが、名前を聞くまもなく二人は歩き去っていった。
　長い船酔いで疲れ、空腹だったオーエンは宿屋を求めたが、その時ロッチ船長からもらったお金がなくなっているのに気づく。さっきの二人組みがかすめとっていったのだ。途方にくれるが、事情を話してパンの端っこかスープの骨でももらおうとしたが、宿屋の主はオーエンを箒で追い立てただけだった。
　夜中、スティームライナーに乗ったあの日が、遠い昔に感じられた。あの時「とうとうやった！」と思ったが、今、その旅は新しい局面を迎え、オーエンはこれからどうしていいかわからなかった。
　とにかくどこかで働かせてもらって、宿や食べ物を求めようと、オーエンはいろいろな店を回る。クラウンシティでは人々は寛大に彼の申し出を受け、そして対価をくれた。だがポセイドンでは、けんもほろろに追い払われるだけだった。やっとあるカフェのオーナーが「裏にあるいらない食べ物なら、持っていっていい』と言ったが、そこに行ってみると野菜の皮や腐った果物しかなく、ハエがたくさんたかっている。オーエンはそのまま立ち去る。
　夜も更けていった。酒場やカフェから聞こえる声は騒々しさを増していき、旧式の火の街灯が燃え、あちこちでけんかが始まる中、オーエンはビクビクしながら暗い通りをさまよい、裏道に入り込んで座った。そして壁に寄りかかりながら、眠ろうとした。ここではレギュレイターたちに追い払われることはないが、そこは決して居心地のいい場所ではない。しかし、なんとかうとうとと眠った。
　翌朝目覚め、あまりの空腹に耐えかねて、オーエンは昨日のカフェの裏庭に戻る。そしてごみの山の中から、なんとか食べられそうなものを口に入れる。それはひどいものだったが、とにかく食べ物には違いなかった。
　オーエンはもう一度港へ行き、ロッチ船長を訪ねて再びお金を貸してもらおうとするが、船はすでにアトランティスの宝石などを積んで、出航してしまっていた。波止場の水夫達の作業を手伝おうとしても、「邪魔をするな！」と言われるだけだ。途方にくれたオーエンは、再び町へ引き返す。
　街を歩いていると、数人の少年たちに囲まれた。彼らはオーエンが何もお金を持っていないことを知ると悪態をつき、彼の懐中時計を奪って、集団でオーエンに殴りかかった。そして傷ついて通りに横たわったオーエンを放置し、去っていった。
　もう彼には時間もわからない。街には時計台もない。
　ポセイドンシティは絵本で見たものとは、似ても似つかないものだった。母の絵本で見た幻想を失った彼は涙を流し、そして母が実際にここに来なくて良かったと思った。本物のポセイドンシティを知らなければ、夢は壊れずにすんだのだから、と。

第18章

　ポセイドンシティには秩序も日々の日課もなかったが、同じような日々が続いた。オーエンは自分の寝床と食べ物を確保し、自分の身を守ることだけにすべての労力を費やさざるえなかった。
　毎晩寝場所を求めて暗い裏通りをさまよった。そして通りにうずくまって眠る時、彼はフランチェスカと過ごした夜を思い起こしていた。それは甘い蜜のような思い出だった。
　しかし彼の眠りはしばしば破られた。確保していた寝場所に他の人がやってきて、場所の取り合いになることも多く、そしてたいていの場合、オーエンは打ち負かされて、傷を負い、新たな場所を求めてさまよわざるをえなかった。ゴルソンに戦いの仕方は教わったものの、ポセイドンの路上生活者はルールなど無視の戦い方をするのだ。

　そんな日々が続いた後、オーエンはある裏通りに、陽にさらされて色あせた外観の本屋を見つける。「アンダーワールド書店」と言う看板がかかったその店は、通りより二段ほど下がったところに入り口があり、本当に名前の通り地下にあるかのような印象だった。そのショーウィンドウに、オーエンは見慣れた本を見つける。それは何度も読んだ母の本、クラウンシティの彩色本だった。それを見たオーエンは懐かしさにおそわれ、もう一度その本を読んでみたくなった。そこでオーエンは勇気を奮い起こし、路上生活でボロボロになった衣服の埃を払い、汚れた髪を隠すように帽子を目深にかぶって、店に入っていく。
　店主は痩せた背の高い女の人だった。白髪交じりの茶色の髪がカールになって頭を覆い、明らかにサイズが合っていない眼鏡を鼻の上に洗濯ばさみで止めていた。彼女はオーエンを見ると、愛想よく微笑んだ。明らかにこの店には、あまり客がいないのだろう。
　しかし今、彼女は接客中だった。客は肩幅の広い、熊を思わせる男で、深い色合いの浅黒い皮膚と豊かなあごひげを生やし、頭は禿げていた。
　オーエンは「窓のところの本を見てもいいですか？」と言い、店主は「どうぞご自由に」と答えた。「ただし、手をきれいにしてね」と言われ、オーエンは汚れた手をズボンで拭いてから、本を手に取った。
「気をつけます――この本は知ってるんです」オーエンはそう言い、ページをめくった。小さな子供の頃から何度もこの本を読んでいる。ウォッチメイカーの時計塔、レギュレイターたちの広場、タイムキーパーの寺院、そして天使たち――
　しかしオーエンが手にした本は、覚えているものとは違っていた。それは彼の知っているクラウンシティではなかった。それに母の本のように錬金術的な加工も施していない。本に描かれた光景も、かつて自分の目で見たものとは、まったく違っている。
　客の頭の禿げた紳士は店主に包んでもらった本を受け取り、「ありがとう、クーリエさん。これで仕事中も退屈しないだろうよ」と言う。
「ただのクーリエでいいですよ、提督」店主は答える。
「この世界の本だけでも、かなり暇は潰せるが、私は時間だけはあるのでね」客は言い、オーエンに向かって頷いた後、「それは良い本だろ、若いの」と言う。
　オーエンはしかし、本の内容に戸惑っていた。
「これは僕の知っているクラウンシティじゃないです」と店主に言うと、
「それなら別のクラウンシティだね」と店主は答える。
「この世にはたくさんの世界があり、たくさんのクラウンシティがある」と言う店主に
「一体どれだけの世界があるのですか？」と驚いてたずねるオーエン。
「君が想像できる以上にね」と提督が笑って言う。
「僕は想像力はあるんですが」と言うオーエンに
「だから君はここへ来れたのかな」
　そう言って、提督はドアを押し開けて店を出て行った。
　店主は台帳を調べながら、言った。「それは輸入物だからね」
　その本の値段は、今はもちろん、カーニバルと一緒にいた頃でも手が出ないものだった。
「あんたに買えないのは知ってるさ。でも大事に扱っておくれ。また手に入るかどうか、わからない代物だから。実を言えば、もう一度その世界に行けるかどうか、私もわからないのだから」
　店主のクーリエが座っている机の横には、大きな鏡があった。店主より背が高く、ドアのような大きさで、だが何も映ってはいない。滑らかなムーンストーン製の鏡だった。
「実際ここから他の世界に行ける人は多くないのよ」店主は言う。
　オーエンはわけのわからない焦りを感じ、本をウィンドウに戻す。
「ウォッチメイカーはこの世界がすべてのありうる世界の中で一番良いと仰っていました」
「馬鹿らしい。その男はすべての世界を見たわけじゃないでしょう」と店主は一蹴した。
「僕はこの本の代金は払えないんです――」
「まあ、そうでしょうね」店主はオーエンを眺めて言う。
「あんたにお金があったら、まず本よりちゃんとした服と、あったかい食事を買うべきだわ。もっとも私は時々、食べ物より本の方を買いたいと思うけれどね」
　おなかがすききっていたオーエンは、店主の言葉に賛成は出来なかったが、同情は感じた。それはポセイドンでは、ほとんどあったことがないものだった。店主はクラッカーとぶどうのひと房をオーエンに差し出し、言った。
「その本はあげられないけれど、私のお昼は上げてもいいわよ」と。
「ありがとうございます。お礼の言葉もありません」
「いつかあんた自身の本を書いてよ。それがお礼ね」店主はそう言う。

　それから一週間もたたないうちに、オーエンはもう一度あの本が見たくなり、店主を訪ねてみたくなって、その本屋を探した。しかしもうポセイドンシティの裏通りは知り尽くしたはずなのに、どうしてもその本屋を探すことが出来なかった。店を閉じてしまったのか、場所を正しく覚えていなかったのか、それともその通り自体が消えうせてしまったように。

第19章

　ポセイドン市で何日も何週間も過ごすうちに、オーエンは少しずつタフになり、用心深くなっていった。日々はただ、生き延びるためだけに費やされた。はじめのうちは村の生活やそこで学んだことを自問し、やがてすっかり忘れていった。
　ある日、彼は道に四個の丸い石を見つけ、通りの角に立ってジャグリングの練習を始めた。だんだんと以前のコツを思い出し、うまく出来るようになると、通りゆく人たちが集まり始めた。アトランティスにはカーニバルは巡回しておらず、娯楽に乏しかったゆえだろう。しかしオーエンが帽子をとってご祝儀を求めると、人々は散っていった。ようやく二人の老紳士がしぶしぶ、小さなコインを二つくれただけだった。もう一回オーエンはやってみたが、今度は通りの向こう側で見物していて、誰も寄ってこない。諦めてオーエンはもらった金で食べ物を求めて、パン屋に行った。
　パン屋の主人はオーエンの身なりを見て胡散臭そうにし、無愛想だったが、コインを出して「これで買えるものをください」と言うと、そのコインを受け取って、固くなったパンをくれた。オーエンは通りに出て、それを食べる。その時、通りの向こうで自分と同じ年頃の、干草色の髪と鮮やかな青い目の若者が、じっと自分を見ているのに気づく。が、その若者はしばらくオーエンを見ただけで、去っていった。
　パンを食べたものの、あまりに長い間飢え過ぎていて、それではとても満たされないことを感じたオーエンは、パン屋の店主が掃除を始めたので「僕にやらせてください」と申し出る。店主は不審げに見ていたが、ほうきを渡したので、オーエンは丁寧に店を掃除する。「ついでの入り口の前もやってくれ」と言うのでそこも掃除し、店主に箒を返すと、相手はそのままそれを受け取って、報酬はくれない。バレル・アーバーでもクラウンシティでも、カーニバルでも、労働の対価に皆喜んで報酬をくれたのに、と当てが外れたオーエンは店主にそれを求めるが、「あんたが勝手にやったんだろう」と相手は取り合わない。絶望的になり、同時にかっとしたオーエンは、衝動的に店にあったパイを一切れつかみ、逃げ出す。「泥棒！」と店主はドアを開いて叫ぶが、それが自分のことであるとは、なかなか実感が湧かなかった。盗むつもりはなかった――オーエンは通りを走り続け、ようやく安全な場所まで来ると、手にしたラズベリーパイを食べた。それは種が大きく、それほど甘くもなかったが、お腹の足しにはなった。
　パイを食べ終わってふと見ると、さっき自分を見ていた金髪の若者と目が合う。
「あーあ、食べちゃった後か。次は分けてくれよ」と彼は言う。
「次？」――いや、次なんかない。「僕はこれを自分で稼いだんだ」
「へえ、パン屋の親父もそう言うだろうねぇ」若者はにやっと笑い、オーエンの隣に腰を下ろした。「でも、いい行動だと思うぜ。気に入った。俺はグェレーロ。あんたは？」と言う相手に「僕はオーエンハーディと言うんだ。アルビオンのバレル・アーバーから来て、元は果樹園の副管理者で――」と言い掛けるが、「いや、あんたの名前を聞いただけで、あんたの人生に興味ねえから」とグェレーロは言う。「君はどこに住んでいるのかい？」と聞くと「その時によりけりだね」と言う答えだった。

　二人はお互いに口には出さなかったが、なんとなく行動を共にするようになる。オーエンにとっては、そしてたぶん相手にとっても、仲間が欲しかったのかもしれない。
　夜になると、グェレーロはオーエンを連れて、ポセイドンシティ郊外地区にある、灯りの消えた屋敷の前に行った。
「ここが君の家？」そう聞くオーエンに「今日だけのな」と答えるグェレーロ。
「この家の持ち主は湖のそばに別荘を持っててな、一度行くと何日かは帰ってこないんだ」そういって彼は窓を開けた。
「ほら、鍵もかかってないぜ」
「でも、そんなことは……」とためらうオーエンに、グェレーロは鋭い青い目で見ながら、言う。
「一緒に来るか来ないか、それはあんた次第だ。好きにしなよ。でもここのやつらには、わかりはしないぜ。ばれないようにすればな。安全なあったかいとこで眠ったり、身体をきれいにしたり、たらふく食べたりしたくないかい？」
　オーエンはその誘惑に勝てず、一緒に家の中に忍び込んだ。そしてその家の食料庫にあったものを食べ、わからないように抜けたところを並べなおした。
「これは本当の盗みじゃないぜ。やつらは俺たちが食べた分がなくても、やってけるからな」
「でも、それでもこれは僕らのものじゃないし――」と、オーエンは罪悪感を覚えるが、「いいじゃないか。奴らがこれだけのものを持っていて、俺たちが何にもないってのは、不公平だと思わないか」と相手は気にしていないようだった。
「それでも、やっぱり盗みだと思う」と言うオーエンに、グェレーロは言う。
「じゃ、生きるために、他に何かいい方法があるって言うのか？」
　そう言われて、何も言えないオーエン。
　ためらいながらも、オーエンは食事をし、ベッドに寝て、翌日早く出発したが、その前にグェレーロは慎重に自分たちの痕跡を隠していた。
「ここは、もう何回かは使えると思う。そのうちに気づかれて、もうちょっと用心深くなるだろうが、それまではな」と彼は言う。
　オーエンはホームシックにかられて、これまでの自分のことをグェレーロに話す。相手はほとんど興味を示さず、言う。
「しかしそれだけの目にあっときながら、あんたがいまだにそんな赤んぼなのが不思議だな」「それが僕だから――人にはみんな、良いところがあるんだと思わないか？」と、オーエンは言うが、「いや――まあ、わざわざ探そうとは思わないしな」とグェレーロは言う。
　グェレーロは日常的に盗みをしていたが、オーエンにはやらせようとはしなかった。「あんたはそういうの、苦手みたいだからな。まあ、そのうちにコツを教えてやるよ」と。

　そうして何日も何週間も、もしかしたら何ヶ月も――もはやオーエンは時計もなく、日の感覚もなくなっていた――彼らはそうして暮らしていた。たいていは裏道で寝て、時には留守の家に忍び込んだ。一度は獰猛な飼い犬を起こしてしまい、逃げ出したこともあったが。その間、グェレーロは決して彼の身の上を話すことはなかった。家族のことも、これまでどうしてきたかも、そしてオーエンには信じられなかったが、彼は何も夢など持っていないことも。
　ある日、裏通りで野宿していると、酔っ払った男がその近くにやってきて、眠り込んだ。グェレーロはその男に近づき、そして財布を奪った。そしてオーエンの腕を取り、「行こうぜ」と言う。「おい、それは強盗だろ？」オーエンは驚くが「別にあいつを傷つけてるわけじゃなし」と相手は言い、財布をあけた。そこにはかなりのコインが入っており、二人は何日かに一回あるかないかの、満足な食事をすることが出来た。
　それ以降、グェレーロは戦術を変えた。居酒屋に張り込み、酔っ払った男の後をつける。そしてその男が通りに倒れて寝込んだところで、財布を奪うのだ。たとえ寝込まなくても、したたかに酔っている状態では、財布を盗まれても追いかけられない。
　オーエンはこの状態を決していいものだとは思えなかった。他の方法があるなら、それを試したいと、働くチャンスを探し、他に生き延びる手立てを模索したが、誰も彼に手を差し伸べてくれる人はいなかった。オーエンはマグナッソンカーニバルの人々を思い焦がれ、故郷バレル・アーバーのチクタク酒場で過ごした思い出を懐かしみ、そしてフランチェスカとの美しい思い出に浸った。たとえ最後には、彼女は彼を傷つけたとしても。
　今、彼にはグェレーロしかいない。

　ある日、いつものように酒場で獲物を待っていると、一人の男が酒場から千鳥足で出てきた。大声で「黄金の七都市」の歌を歌いながら。その男は大柄でボロボロの身なりに、その時の気温にそぐわない熱いジャケットを着ていた。
「カベーザ・デ・ヴァカだ」グェレーロは言った。
「知ってるか？　あいつは有名なんだぜ。あいつは何度も伝説の黄金の七都市の近くまで行ったって言うんだ。で、その冒険話をして、酒場でおごってもらう。何ヶ月かそこにいて、そのうち誰もおごってくれる奴がいなくなると、また冒険に出かけるらしい」
　二人はその男の後をつけ、隙を見てグェレーロが駆け出し、男の財布を奪おうとした。しかしその財布は、すぐに切れるような紐でなく、細いワイアでくくりつけられていた。デ・ヴァカは怒りの叫びを上げた。オーエンは飛び出し、グェレーロを逃がそうとした。男は巨大なこぶしを振り上げて殴りかかり、オーエンの帽子を飛ばした。デ・ヴァカは酔っ払っているのではなく、ただ少し足を怪我していて、びっこを引いていただけだと二人が気づいた時には、遅かった。
　デ・ヴァカは叫び、それに呼応して、酒場から彼の仲間達が飛び出してきた。オーエンは逃げようとしたが、デ・ヴァカに強い力で腕をつかまれ、逃れることは出来なかった。グェレーロは男達がやってくるのを見ると、財布から手を離し、逃げ出した。彼はオーエンに一瞥もくれなかった。
「グェレーロ！」オーエンは叫んだが、答えは返らなかった。
　男たちが襲い掛かってきた。オーエンは応戦しようとしたが、ゴルソンから教わった戦い方も、ここではあまり役に立たない。しかも相手が多すぎた。それでも必死に抵抗し、メインストリートまで逃げてきたが、そこでまた捕まった。男たちは彼を蹴りはじめた。
　表通りに人が歩いてきた。胸幅が広く、茶色の皮膚をした、頭のはげた男。彼は何事が起きたのかと、立ち止まって見ていた。男たちの方は見物人など気にしなかったが、オーエンは必死に自分の身を守ろうとしながら、絶望的な、そして訴えるような目でその男を見上げた。その人は、かつてアンダーワールド書店で会った客だった。店主が提督と呼んでいた男だ。
　彼は一瞬躊躇したようだった。争いに巻き込まれるのは面倒だと思ったのか、一歩別の方向へ歩きかけたが、考え直したように向き直っていった。
「さあさあ、もう十分だろう」
「もう十分かどうかは、俺たちが決めることだ！」
　そういう男たちに、その人は杖を振りかざし、「ここでやめないと、もっと面倒なことになるぞ」と言う。
　オーエンは血まみれになり、荒く息をついていた。その情けない有様を攻撃者たちはあざ笑ったが、通りすがりの男の武器は強そうだ。もういいだろう――そう思った彼らはデ・ヴァカの周りに集まり、悪態をついて去っていった。そして「黄金の七都市」の歌を、調子はずれな声で歌いながら、酒場に戻っていく。
　救済者は黙って何かを考えるように、じっとオーエンを見下ろしていたが、やがて口を開いた。その口調はがっかりしているようでもあり、好奇心を覚えているようでもあった。
「さてと、私が間違ったことをしたのではないと、思わせてくれないかね。説明してくれ」

第20章

　男の名前はパングロスと言った。スティームライナーのパイロットで、それゆえパングロス提督と言われている。もっともその称号はどこからもらったのか、オーエンにはわからなかったが。パングロス提督は茶色い肌で、頭にはまったく何も毛がなかったが、そのかわり長く豊かな黒いあごひげを生やしていた。彼はオーエンを自分の宿に連れて行ってくれた。
「私は泥棒は好きじゃないんだ。君は自分の行為の報いを受けだだけだと思う。私が君を助けたのは、君とあの店で会ったことと、それから君の目に何かを感じたからだ。君は根っからの泥棒ではないような気がしてね」
「僕は根っからの泥棒じゃありません」オーエンは血を拭いながら言った。
「でもポセイドンのようなところにいると、すぐに染まってしまうだろう」
「でも、僕には行くところがないんです」
　オーエンは殴られて歯が一本緩んでいるのを感じ、口ごもりながら言った。
「とりあえず今日はここに泊まるといい。その前に、身体を洗っておいで」
　そうパングロス提督に言われ、オーエンはここに来て初めて、熱いお湯と石鹸で、見つかるかとビクビクすることもなく、身体を洗うことが出来た。提督はオーエンの汚れた服を、宿屋の洗濯に出してくれたので、その間オーエンは毛布に包まっていた。そして彼はパンと紅茶をむさぼるように食べた。
　提督の親切に対してなにかお返しをしなければ、とオーエンは思ったが、今は身体も痛く、働くことも出来ない。ジャグリングを披露するのも無理だ。自分の身の上を話すのも、きっとアルビオンからは手配されているだろうという恐れゆえ躊躇したが、机の上に積まれた本からして、提督は物語が好きだろうと思い、オーエンは今までに起こったことを話した。一時間以上にわたり、バレル・アーバーのことやクラウンシティ、フランチェスカのこと、ここへ来てからの暮らしやグェレーロのなど、すべて話してしまった。話しているうちに、涙が流れてきた。提督は黙って聞いていたが、言った。
「君と本屋で会った時、君はここに来て間もないのだろうなと思ったが、やっぱりそうか」
「僕はただ、クラウンシティから逃げられたらと、そればかり思っていたので。それにアトランティスのことは聞いていて、期待もしていたんです。それが嘘だとは思いませんでした」
「ああ――ここの連中もアルビオンやウォッチメイカーのことは知っている。彼らは決められたスケジュールや他人の決断で動かされるのは真っ平だと思っているようだがね。自分で決めたことなら、自分で責任が持てる。君はスタビリティで育っているから、それが当たり前だと思っているだろうが。私も本来、ここの人間じゃない。自分の世界から外れてしまったんだ。でもまあ、ここでいい暮らしは出来ているがね。そして出来るだけポセイドンからは、用事がない限り離れていることにしている。こんな場所では、すぐに荒んでしまうからね」
「あなたは普段は、どこにいらっしゃるのですか」
「スティームライナーの中だよ」
　そして提督は彼が所有するスティームライナーのことを、まるで恋人のように語る。それを使って、ポセイドンと山奥の鉱山とを往復し、その資源を運搬することを仕事としていた。
　パングロス提督はしばらく顎鬚をいじりながら、考えていた。そして言った。
「私のスティームライナーに助手が欲しいと思っていたところだ。しばらく一緒に来るかね」と。

　パングロス提督のスティームライナーはアルビオンで走っているようなものではなく、七両の貨物車と、先頭の機関車から成っていた。貨物車は古くてあちこちへこんでいたが手入れが行き届いていた。機関車には大きな幌がつき、レッドファイアーオパールやその他の鉱物の粉末に錬金術のパウダーをふりかけ、アルビオンから輸出される冷たい火を触媒として、赤石炭を燃料にして動いていた。機関車はまた、提督の生活スペースの機能も備えていた。スティームライナーのエンジンは、よく慣れたマスティフのようだった。慣れない人には牙を向くが、主人には忠実だ。
　それから数日を、二人は出発の準備に費やした。オーエンも床を掃いたり、拭いたり、ペンキを塗りなおしたりと、できるだけ働いた。放浪生活で受けた暴行で身体は痛み、あちこちにあざが出来ていた。提督と一緒にすごすようになってからは、身体をきれいにしていたので、余計にそれが目立った。寂れた駅で働く人夫たちは提督がオーエンを殴ったと勘違いしてひそひそ噂をし、それに怒った提督が杖を振り上げると「やっぱりそうか」と余計に思ったようだった。そしてオーエンは提督と一緒に何度も町へ出たが、あれ以来グェレーロの姿は見かけることはなかった。

　ある午後、とうとう出発の準備が整った。これからアトランティスの奥地へ行く。鉱山や、その向こうのまだ見ぬ地域へ。その向こうには黄金の七都市がある。黄金自体はウォッチメイカーのためにアルビオンでは価値をなくしたが、まだアトランティスでは使える。しかし、その本当の価値は黄金ではなく、ロマンにあるのだ。
　二人はエンジンを起動し、ボイラーのふたを閉め、蒸気圧を上げた。冷たい火やさまざまな鉱物が燃え、小さな火花を上げる様子は、トミオのワゴンのカラフルな小爆発の火花を思い起こさせた。スティームライナーは目覚め、青白く光る丘に続く線路の上を動き出した。パングロス提督は操縦席に立ち、前方を見ていた。山のシルエットが地平線に浮き上がり、日没の光に暗く彩られている。
「もっとエンジン出力を上げてくれ、ハーディ君。幌を膨らますんだ。飛ぶぞ――」
　オーエンは走って、もっと赤石炭をくべた。それが燃え上がり、エンジンの出力が上がって、蒸気が強く吹き出すと、オーエンは提督のそばに戻った。
　突然、目の前の線路が見えなくなった。加速したスティームライナーはその線路の端から、宙に舞い上がった。フランチェスカのように優雅に。そして空へと上がっていった。
「今までにスティームライナーに乗ったことはあるかね」提督に聞かれ、オーエンは息をのみながら答える。「はい、でもこんなのは初めてです――本当に」
　彼らは夜の中へと進み、夜空に包み込まれた。パングロス提督は液晶コンパスを使って進路をとることや、風向きを読むこと、正しいベクトルに進んでいるかの確認のしかたなどを教えてくれた。そうすれば、再び目的の線路の上に乗ることが出来ると。
　オーエンは舵を取り、星空を横切って進んでいった。夜の中を、山を越えて。

第21章

　パングロス提督と共に数ヶ月間スティームライナーの旅を続ける間に、オーエンは身も心も癒されていった。ポセイドンの路上生活で負った傷も回復し、フランチェスカとの恋の痛手も、少しずつ美しい思い出に変わりつつあった。
　提督の仕事は、ポセイドンシティからさまざまな生活用品や物資を仕入れ、それを奥地の鉱山の村に持っていって売り、かわりにその鉱物資源を買う。そしてそれをポセイドンまで持っていって売り、物資を仕入れて、また村へいく。その繰り返しだった。オーエンは良く働いたので、ポセイドン氏の滞在時間を今までよりかなり短縮できたと、パングロス提督は喜んでいた。
　スティームライナーで移動している間に、提督はオーエンにさまざまなことを教えてくれた。航海術だけでなく、地理や化学、錬金術や経済のことまで。いくつもの鉱山の町や村を巡るうち、それぞれの場所には固有の特色があり、アルビオンのようにどれも同じと言うわけではないということを、オーエンは知った。しかしポセイドンシティでの苦い経験から、オーエンは酒場や裏通りに入ってみる気にはなれず、提督からあまり離れないようにしていた。
　パングロス提督はいろいろなことを教えてくれたが、自分のことはあまり話したがらなかった。「なぜそんなに長いあごひげを生やしているのですか？」と一度聞いた時には、「なぜそんなに頭がつるつるなのですか、と聞いてくれてもいいんだがね」と返される。そしてその質問をオーエンがすると、「それは答えたくない」と言われる。どこから来たのかと言う質問には、「遠くの別の場所から来た。そこはこの世界と同じようで、でも違っている。ほんの一部の人には知られているが、ほとんどの人は存在も知らない」と答えた。その時には、オーエンは何のことだか、よくわからなかった。
　提督のスティームライナーには、「アンダーワールド書店」で買ったらしいたくさんの本があった。その書棚にいつか自分がその店で見かけたクラウンシティの彩色絵本があるかどうか見てみるオーエンだが、提督の蔵書は文字で書かれたものばかりで、絵本はない。（注：アルビオンにはどうやら絵本しかないようだ）しかし提督は、オーエンに文字を読むことを勧めた。見たこともない文字の本はわからないので飛ばしたが（後でそれは違う言語で書かれたものであることを知る）、じっくりと文字を読んでいるうちに、オーエンは自分自身の想像力で絵をイメージすることが出来るようになった。それは時に彩色絵本よりはるかに鮮やかで、そして自由だった。パングロス提督はオーエンに随筆を読ませ、その感想を求めたりもした。そうして彼は、オーエンに自分で考えることをさせた。今まで彼に考えることを求める人はいなかった。すべては決められていて、すべては正しい場所に治められている――無知は良きこと、真の祝福――あの天使の箴言を、オーエンはもう信じてはいなかった。無知なるがゆえに、彼は夢を見てバレル・アーバーを飛び出し、そして今までひどい目にあってきていた。もし正しい情報と判断が出来ていたら、そうはしなかった。でもそうしたら、今の自分はなかった――
　結局、一番いい結果になるように出来ているのだ――
　今、自分はスティームライナーに乗って、アトランティスの奥地を旅している。ポセイドンシティと鉱山の町々を往復する旅ではあるが、日々新しい体験をし、いろいろな人に会い、食べたことのない食べ物を食べている。かつて夢に見た冒険が、今は日常となっているのだ。

　ある日、オーエンは提督の書棚の一番上に、擦り切れて背表紙のタイトルが読めなくなっている古い本を見つける。彼はふと好奇心に駆られてその本を手に取り、表紙のタイトルを見る。『アルビオン、アトランティスと黄金の七都市、その先への冒険と旅の記録』
　そしてその本の著者を見て、オーエンは仰天する。ハンネケ・ラコタ――母の名前だった。
　村にいた頃、いくども想像した。母は病気で死んだのではなく、退屈な村を抜けて、広い世界に冒険に行ったのだと。アルビオン、アトランティス、そして七都市へ――今もきっと、冒険を続けているのだ。そんな想像の一方で、オーエンは現実の母は村の外れの草原に作られた墓地に眠っていることを知っていた。毛布に覆われて病床に横たわる母と、ベッドのそばに跪いている父の記憶もあった。
　彼はページをめくった。「冒険を始めるのにもっともふさわしい場所は、完全な生活と、それでは満たされないと思った人間。この静かな村は、大勢の人にとっては住み心地のいい場所だけれど、私は世界が見たかった。それで私はそうしたのだ」
　オーエンの目は見開かれ、文字は涙でぼやけた。「提督――この本は――」とパングロス提督に言うと、彼はその本を見て言う。
「ああ、それはなかなか素晴らしい物語だろう。彼女は有名な冒険家なんだ。彼女の世界だけでなく、他にも影響を及ぼしているほどのね」
「この人は僕の母と同じ名前なんです」
「そうなのかね。それなら彼女は彼女の世界においては、自分の想像と夢を追って冒険に出たんだ。そしてこの世界では小さな村に留まり、結婚して、息子がいる。そして息子の君が冒険に出かける。面白いね。そして別の世界では、村を離れることなど考えもしないオーエン・ハーディがいるのだろうね」
　オーエンはその本を借り、部屋の隅に座り込んで読んだ。読み終わると、また最初から読み返した。

　ある日、彼らはエンドゥラインと言う村に着いた。ここはアトランティスを走るスティームライナーの線路の終点で、これ以降は未踏の地となっている、辺境の村だ。ここはレッドファイアーオパールの産地であり、村人は狩をし、野菜やハーブを作っていた。
　そこの酒場で提督と二人、塩っ辛い夕食を取った。大鹿のステーキと地元の酒だが、その酒はとても強く、たった一杯でオーエンは酔っ払ってしまった。
　近くのテーブルで三人の鉱山人夫がカードゲームをして賭けをしながら、大声で「黄金の七都市」の歌を歌っていた。それはポセイドンの酒場でカベーザ・デ・ヴァカが歌っていたものと同じだった。
　オーエンは最近ずっと、その黄金の七都市のことを考えていた。別の母が書いた本では、彼女はそこを訪れ、その黄金の建物の美しさとすばらしい文化のことを書いていた。彼女はそこで歓待され、目を見張るような踊りとご馳走でもてなされたと。彼女はメサ（台地）の上にある七つの都市すべてを訪れ、それからまた旅を続けたと書いていた。
　酔った勢いで、オーエンはそのテーブルを訪れ、尋ねた。
「黄金の七都市のシーボラって、どこにあるかわかりますか？　行ったことはありますか？」男たちの一人が、笑って答えた。
「だれも行ったことはないよ。七都市は単なる夢だ。どんな人間も、見つけられない」
「僕がどんな人間じゃないとしても？」と言うオーエンに彼らは笑い、言う。
「ありえないことは信じられないね。七都市は存在しないんだ」
　パングロスは笑って男たちに言う。「彼は読書家でね」
　彼らは提督を知っているようで、「ああ、あんたの本だね、提督」と言って笑う。
　オーエンはさらに酔った勢いで言う。「遠く離れたアルビオンでも、シーボラのことは聞いたことがあるんです。だから実在してるのではないかと――少なくともかつてはあったと思います」
「ああ、たしかに山の向こうのレッドロック砂漠に埋もれてるのさ。誰もそこへ行って、帰ってきたものはいない」別の鉱夫がそう言った。
「もしかしたらそこがユートピアで、気に入ってしまって帰ってこないのかもしれませんよ」オーエンは言う。
　レッドファイア・オパールの暖炉のそばで温まっていた、猟師の身なりの大柄な男が言った。「時々、山を越えて遠くまで狩りに行くんだが、いつか見たことがある。ヒエログリフや巨大な石の彫刻やアーチや、モニュメント――どれも強力な錬金術を使って出来たようなものを。あれは普通の人間なら、おかしくなるような光景だったな」
「僕が普通の人間じゃないとしたら」と言うオーエンに、「君は飲みすぎだ」とパングロスは言い、二人は宿に帰った。しかしオーエンの眠りは浅かった、

　エンドゥラインを出てポセイドンに戻る道中、オーエンはずっと黄金の七都市のことを考えていた。バレル・アーバーにいた頃、彼は夢見ていた。クラウンシティ、ポセイドン、そして黄金の七都市を。クラウンシティは彼が思っていたような理想郷ではなかった。ポセイドンは、夢とは似ても似つかない。しかし自分の夢がすべて偽りだったとは思いたくはなかった。ひとつくらい、本当のものがあっていい――そして彼の夢は、別の母が書いた本の描写によって、ますます強く燃え上がっていた。
　スティームライナーの中でオーエンは母の本のほかに手がかりはないだろうかと、提督の蔵書を調べたが、いつくかの散発的な、それに反する記述を見つけられただけだった。そしてオーエンが黄金の七都市に取りつかれたようになっていくのを、パングロス提督は黙ってみていた。
　三週間後、二人が再びエンドゥラインに戻ってきた時、オーエンは提督に言った。
「あなたと一緒に過ごした時間は楽しかったです。とても恩義を感じています。でも僕は少し暇をいただいて、黄金の七都市を見てきたいのです」
「わかった。いつかはそう言いだすだろうと思っていた。君の落ち着かない気持ちは、狭いスティームライナーの中では、隠せなかったからな」パングロスは頷いた。
「都市を見つけたら、僕は帰ってこないかもしれないですが」
「見つけれらなくとも、帰っては来ないだろうがね。でももし帰って来られたら、私を訪ねてきてくれ」提督はそう言い、二人は酒場に入った。
　そこでは三週間前と同じ顔ぶれの男達がいた。オーエンは彼らに言った。
「僕は黄金の七都市に行きたいと思っています。何か手がかりがあったら教えてください」
　男たちは笑ったが、彼が真剣なのを見て、あの猟師が答えた。
「西に向かって歩き続けろ。山を越えて、レッドロック砂漠に入って、ほとんど人が入ったことのないエリアをずっと歩いていくと、渓谷や盆地や、たくさんの高台が見えてくる。その高台を登った上に七都市はあるという。伝説ではすべての七都市は高台の上にあって、その太陽と月の間には、湖があるという。私は行ったことがないがね」
　パングロス提督はそれを聞き、言った。「私は君に賃金を払っていなかった。代わりに必要な物資を買ってあげよう」
　オーエンは熱に浮かされ、現実的な側面をまったく考えていなかったことに気づく。何も持たないままで行ったら、ポセイドンに最初に来た時よりもひどいことになる、と。彼は提督に感謝し、二人は翌日買い物に行って、保存食料や水のパック、ロープやナイフ、発火装置などを買い込む。そのために提督は出発を遅らせ、そして言う。
「これでは賃金の半分にもならないな。必ず帰ってきなさい。そうしたら、残りを払うから」
「そんな、とんでもありません。僕の方こそ、あなたにどんなにお礼を言っても言い足りないくらいです」オーエンは感激して言う。
「でも、一つお願いがあります。あの母が書いた本をいただけませんか？」
「彼女は君の実在の母親ではないよ？」
「でも僕の母親になったかもしれない人ですから」そう言うと、「わかった」と提督は本をくれる。オーエンは荷物の中に、その本を入れた。
　そして二人は別れを惜しんで、スティームライナーのそばに立っていた。
「ちょっと待ってくれ。これを君にあげよう」提督はそう言い、いったんスティームライナーの中に入ると、一つの装置をオーエンに手渡す。それは操縦席にあるドリームラインコンパスと同じものであった。
「ちょうどスペアがあったんだ。持っていきなさい。これは二つの羅針盤を持っている。行き先と、戻る先と。これがあれば、道に迷わないかもしれない」
「ありがとうございます。本当に。絶対生きて、あなたのところに帰ってきます」オーエンは感激のあまり涙を浮かべて言う。パングロス提督も、うっすらと涙をうかべて言った。
「私は最初、君はあまりに夢見がちだと思った。でも今は、すぐ壮大なことを考えたがる君を気に入っている」
　いろいろな経験をしたが、それでもなお自分は夢見る人の部分を残していた。パングロス提督は彼に仕事と知識、本、考えることを教えてくれ、受けた傷を癒す時間をくれた。オーエンは改めて感謝の言葉をのべ、二人は別れた。提督はスティームライナーに戻り、オーエンはエンドゥラインを超えて、より奥地へと歩いていった。
　とうとう自分の道を行くんだ――彼は山を越えて、歩いていった。